伝記 記事

伝説のリーダー「スティーブ・ジョブズ」とは?56年の生涯と5つの経営哲学

2017/08/19

製品を通して人々に新しいライフスタイルを提供したスティーブ・ジョブズは、惜しまれながらも2011年その56年の生涯を閉じました。

ここでは、その56年の生涯をご紹介します。

ジョットコースターのような56年の生涯

誕生

1955年、スティーブ・ジョブズは誕生した。ジョブズの母親は、当時大学生だった未婚の女性でした。そして、生まれる前から養子に出されることが決まっていました。

養夫婦に選ばれたのは、高校中退のブルーワーカーの夫を持つサンフランシスコ在住のジョブズ夫妻でした。養子縁組の条件は、「必ず大学へ進学させる」ことでした。

こうしてサンフランシスコで育ったジョブズは、高校生の時に当時大学生だったスティーブ・ウォズニアックと運命の出会いを果たし、性格の全くことなる二人でしたが、意気投合します。

この頃、ウォズニアックは、無料で長距離通話ができる違法な装置「ブルーボックス」を作り出す。それをジョブズが大学で販売していった。

「ウォズニアックがハードを作り、ジョブズが販売する」というタッグはこの頃から始まった。

半年で大学を中退

1972年、スティーブ・ジョブズ17歳。大学進学に興味がなかったジョブズですが、産みの母親と約束していたジョブズ夫妻の強い勧めで米オレゴン州のリード大学に進学をします。

大学に面白さを感じることができなかったジョブズは、両親の蓄えを浪費続けることへの罪悪感も手伝い、半年で大学を中退してしまいます。

しかし、中退後も大学には留まり、空き缶拾いなどで日銭を稼ぎながら興味のある講義のみをモグリの学生として過ごしました。この時、カリグラフィー(デザイン文字)に出会い、夢中になって技術を学びました。この時の経験がのちのマッキントッシュに活かされることになります。

ゲーム会社「アタリ社」への就職

地元に戻ったジョブズは、1974年、19歳の時にゲームメーカー「アタリ社」に技術作業員として入社します。

この頃、東洋思想との出会いを求め、会社のドイツ出張を利用してそのままインドへ訪れます。帰国後は、サンフランシスコで禅や瞑想のセミナーに参加して過ごします。

アップルコンピュータの創業

800px-apple_garage

写真:wikipedia

1976年、21歳の時にジョブズはウォズニアックと共に起業家人生をスタートさせました。

1975年、驚くほどシンプルな基盤で動くコンピュータをウォズニアックが開発し、これがコンピュー愛好クラブで高い評価を得たことでジョブズは会社を作り販売することを決意します。当時はヒューレット・パッカードに勤めていたウォズニアックを誘い1976年にアップルコンピュータを創業し、同時に「アップルI」を販売開始した。

創業当時は、ジョブズの実家のガレージから始まったアップルコンピュータですが、個人投資家のマイク・マークラから9万ドルの投資と25万ドルの信用保証を受け、1977年に法人化を果たします。

25歳の若きミリオネアとして時の人に

「アップルII」が発売後、爆発的なヒットを生み1980年アップルコンピュータは株式を公開。株式は、ジョブズ、ウォズニアック、マークラの3人で1/3ずつ持ちあった。

この時、ジョブズは株式公開により2億5000万ドルの資産を手に入れ、一躍時の人となった。

しかし、この時株式は社員には分配されておらず、徐々に社員の不満が溜まり始めました。

マッキントッシュ発売

1984年、ついに「マッキントッシュ」が世に出されました。今までコマンドを打つことで操作していたコンピュータがマウスと画面に表示されたアイコンをクリックするということ、さらにスタイリッシュなデザインと美しいフォントに世の中は衝撃を受けた。

しかし、マッキントッシュの開発では、ジョブズが創業者としての権力を盾にしてデザインや機能性に再三の口出しをした。当初のプロジェクトリーダーだった社員は会社を退職、さらに社員たちの不満は膨れ上がっていきました。マッキントッシュ話題性とは逆にジョブズの求心力は急速に薄れていった。

アップルからの追放

1983年、マーケティングのプロとして当時ペプシにいたジョン・スカリーを引き抜きアップルのCEOを任せた。

ジョブズとスカリーは、いい関係を築いていまいた。しかし、社員に対するジョブズの傍若無人な振る舞いは目に余るものがあり、次第にジョブズの身勝手さが社内の混乱を招いていると考えるようになっていきます。

発売当初は、話題をさらったマッキントッシュの販売がジョブズの予想ほど伸びずに在庫が膨れ上がり、従業員のレイオフに至ったことも、徐々にジョブズの立場を悪いものにしていきます。

立場上、上司であったスカリーは1985年4月、マッキントッシュ部門の責任者からジョブズを解任します。それを受け、ジョブズはスカリー追放を画策しますが、事前に計画は相手方に漏れ、2人は取締役会で決別し、取締役会全員がスカリーを支持し、ジョブズは経営権を失い、アップルを追放されます。

アップルを追放されたのち、アップルから数人を引き抜き業務用コンピュータを発売するためにネクストコンピュータを立ち上げた。1987年に資産家のロス・ペローから2000万ドルの出資を獲得し、88年に「ネクストキューブ」を発売した。

ネクストキューブは、立方体のユニークなデザインと性能の高さから注目を集めたが、1万ドルという価格に全く売れなかった。また、業務用コンピュータにデザイン性を性を追求したことも敗因の一つだった。

nextstation

写真:wikipedia

その後、1993年、ネクストコンピュータはハード部門を売却した。

ピクサーのCEOへ就任

その後、スターウォーズシリーズで知られる映画監督のジョージ・ルーカスが立ち上げたルーカスフィルムズのコンピュータ部門を買収し、ピクサーと命名、CEOとして就任した。

ジョブズが興味を持ったのは、高速でグラフィック処理ができる画像処理専用マシンでした。ジョブズは、このマシンを医療業界に販売しようと考えていた。X線処理画像を立体表示するといった先進技術は高い評価を得たが12万ドルを超える価格に売れ行きは振るわなかった。

これがもとで、ハードウェア部門の売却を余儀なくされてしまった。

トイストーリーが大ヒット

ハードウェア部門売却後に残されたのは、ハードウェア促進用のアニメを作成していた日陰部署のアニメ制作部門でした。

しかし、このアニメ部門は、高い技術を持っており、ディズニー向けに初のフルCGアニメ「トイストーリー」を作成した。1995年に公開されたこの映画は大ヒット作品になり、映画公開の1週間後に上場を果たしました。

アップルへの復帰

その頃のアップルはというと、Windowsにシェアをどんどん奪われる一方になっていました。

新しいOSを開発したかったCEOのギル・アメリオはネクストコンピュータが作ったOSに興味を持ちます。1996年、ジョブズは、その見事なプレゼンテーションでOSの魅力を伝え、アップルにOS導入を決断させます。この時採用されたOSが後のMac OS XやiOSへと繋がっていきました。

アメリオは、ジョブズの提案したネクストの買取にも合意し、ついに1997年1月、ジョブズはアップルへの復帰を果たします。

そして、2000年にはCEOとして就任を果たしました。

iPadが空前のメガヒット

2001年、アップルは全く新しい音楽分野の製品「iPod」を発表した。今でこそアップルを代表する製品であるが、当時は「音楽分野でパソコンメーカーに何ができるのか」とほとんどが懐疑的な反応だった。

ジョブズの本当の目的は、ネットとの連携でした。ジョブズが自ら5大音楽レーベルと契約し、2003年には20万曲を揃え、音楽配信サービス「iTunes Music Store」を立ち上げた。

1曲から買うことが可能で、一律一曲99セント、「iPadで音楽を持ち歩く」という音楽の新しい楽しみ方は世の中に受け入れられ、新たしいライフスタイルを生み出しました。

そして、長年アップルのライバルであったマイクロソフトのWindoesPCでも利用出来るようにしたことも大きな成果をもたらし、2005年にはiPadがアップルの売り上げの30%を占めるようになった。

歴史に残る名スピーチ

2005年、ジョブズはスタンフォードの卒業式に招待され、伝説的なスピーチを残しました。

「アップルを追放されたのは最高の出来事でした」、これはジョブズのスピーチの中の1節です。

「アップルをクビにならなければ、成功していることでの重圧に身動きが取れなくなり、人生で最も創造的な時期を迎えることができななかった、どんな体験ものちのち生きてくるものです」とジョブズは語りました。

iPhoneが世界を変える

medvedev_and_steve_jobs

写真:wikipedia

勢いに乗ったジョブズは、音楽業界に続き、通信業界にも参入していきます。2007年にiPhone、2010年にiPadを次々に発表していきました。

タッチパネルを使った操作性と美しいデザインは携帯端末のイメージを一新させました。そして、「スマートフォン」という分野が一気に拡大し、新しい製品というだけに留まらず、新しいライフスタイル、新しい産業を生み出しました。

この世を去る

2003年、ジョブズはすい臓ガンと診断され、食事療法に取り組んだものの進行を止めることができず、翌年に手術を受けました。

2008年に新商品のプレゼンテーションで登壇した際には、激やせしており、健康面での心配をされた。実際に転移があり、入院や手術を繰り返しました。

療養に入っている間もCEOには留まり、重要な戦略決定には関わり続けました。そして、2011年8月にCEOを退任し、退任から1か月半後、惜しまれながら56年の人生を閉じました。

outside_palo_alto_apple_store_following_steve_jobs_death

写真:wikipedia

スティーブ・ジョブズ、5つの経営哲学

5つ

ジェットコースターのような波乱万丈な人生を生きたジョブズ。彼の経営哲学もまた非凡なポリシーを持っていました。ここでは、この経営哲学を5つご紹介します。

成功するまでやめない

マッキントッシュ、iPhone、iPadなど世の中を変える製品を生み出し、華々しい成功が目立つジョブズですが、実際は失敗の連続でした。

ジョブズの失敗は、アップルを追放に始まり、他にもマッキントッシュと並行してジョブズ主導で開発を進めていたコンピュータ「Lisa」はほとんど売れなかった。

ネクストコンピュータの時代では、ネクストキューブを開発するも業務用PCにも関わらず、デザインにコストを掛け過ぎ、価格が跳ね上がるという判断ミスを犯した。

数々の失敗をし、一時はシリコンバレーを去ることも考えていたジョブズだが、「それでもこの仕事が好きだから」と踏みとどまり何度も挑戦を続け、成功を手にした。

点と点を面に

モグリの学生をしていた時に出会ったカリグラフィーは、後のマッキントッシュの美しいフォントに活かされた。

ネクストコンピュータ時代に苦労して開発したOS(ネクストステップ)は、後のアップル復帰のきっかけになり、iOSをなどの主要製品の基盤技術の土台となった。

ジョブズは、「点と点が繋がる」と表現し、「今やっていることが必ず後に繋がる信じることで、確かな確信になる」語った。

優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む

マッキントッシュに搭載されたグラフィカルなインターフェース、マウスを操作するというアイデアはもともと米ゼロックスが開発したものだった。この技術に感銘を受けたジョブズは、自社の製品にこの技術を取り入れた。

ジョブズは、優れたアイデアをパクることにためらわなかった。「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」というピカソの言葉を実行した。

人のアイデアをパクることはほめられた行為ではない。しかし、ジョブズの中では「誰が考えたか」というよりも「何ができるのか」の方が重要であったようです。

本当に作りたいものがあるならトップになれ

アップルに復帰後、ジョブズが望んだものは「自分が本当に欲しいものを作るための自由な環境」だった。

当時のCEOであったアメリオをメディアなど様々なものを戦略的に活用し、追いやった。そして、取締役も次々にリストラし、創業当時の出資者であったマイク・マークラでさえクビにして自分の見方を揃えていった。

そして作り上げた「新ジョブズ体制」からiPod、iPhoneが生まれていった。

プレゼンは全力

天才的なプレゼンターで知られるジョブズですが、最初からそうだったのでしょか?

実は、21歳で初めて展示会に参加した際、会場の隅でたどたどしく説明をしていたとのことです。しかし、出資者のマイク・マークラの助言でプレゼンテーションに力を入れ始めます。

結果として、マッキントッシュの発表に関するプレゼンテーションでは、聴衆を熱狂させました。

ジョブズは、本番だけが凄いわけではありません。リハーサルを何度も行い、セリフを徹底的に練り直し、念入りな準備が最高のプレゼンテーションを作り上げていきました。

「何か新しい物ををためには、人を説得する必要がある」。ジョブズは、革命的であるために、周囲を魅了し賛同者を増やすために必死にプレゼンテーションを磨いていきました。

まとめ

いかがだったでしょうか?ジョブズの人生と経営哲学には、学ぶところが多くあります。

ご自分の人生、仕事に少しでも取り入れてみてはいかがでしょうか。

スティーブ・ジョブズをもっと知る

スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン

スティーブ・ジョブズ(漫画)

 スティーブ・ジョブズ 知られざる男の正体

ジョブズ vs. 松下幸之助

-伝記, 記事
-, , ,